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二 - 3

书籍名:《吾輩は猫である》    作者:夏目漱石
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寒月と、根津、上野、池(いけ)の端(はた)、神田辺(へん)を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着(はるぎ)をきて羽根をついていた。衣装(いしょう)は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。


何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床(きたどこ)へ行って顔さえ剃(す)って貰(もら)やあ、そんなに人間と異(ちが)ったところはありゃしない。人間はこう自惚(うぬぼ)れているから困る。


宝丹(ほうたん)の角(かど)を曲るとまた一人芸者が来た。これは背(せい)のすらりとした撫肩(なでがた)の恰好(かっこう)よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服(きもの)も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕(ゆうべ)は――つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉(たびがらす)のごとく皺枯(しゃが)れておったので、せっかくの風采(ふうさい)も大(おおい)に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手(ふところで)のまま御成道(おなりみち)へ出た。寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。


人間の心理ほど解(げ)し難いものはない。この主人の今の心は怒(おこ)っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道(いちどう)の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交(まじ)りたいのだか、くだらぬ事に肝癪(かんしゃく)を起しているのか、物外(ぶつがい)に超然(ちょうぜん)としているのだかさっぱり見当(けんとう)が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒(おこ)るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属(ねこぞく)に至ると行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数(てかず)をして、己(おの)れの真面目(しんめんもく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。

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